コロナ禍の真っただ中、僕はバイクで日本一周の旅に出た。
出発することに迷いはあったけれど、「今しかできない旅がある」と自分に言い聞かせ、走り出した。
そんな旅の途中で訪れたのが、鹿児島の「ホテル太平温泉」。
フロントで交わした何気ない会話、そして手渡された小さなおにぎり。
それが、この旅で一番心に残る出来事となった。
出発の背景と不安
出発したのは2021年の春。
全国で感染者が増え、緊急事態宣言の対象地域も次々に広がっていた頃だ。
ニュースでは「他県ナンバーの車がイタズラをされた」といった出来事が繰り返し報じられ、世間の目は県をまたぐ移動に厳しかった。
それでも僕は、走り出すことを選んだ。
10年以上勤めた会社を辞め、次の職場に就く前。
長く休みを取れるのは、もうこの先ないかもしれない。
「今しかない」
そう思い、バイクで日本一周の旅に踏み切った。
もっとも、決断までは簡単ではなかった。
自分はどちらかといえば出不精で、一人で飲食店に入るのも少し躊躇するタイプだ。
だからこそ「本当にやり切れるのか」という不安は大きかった。
結局、初日の行き先と宿だけを決め、ほんの数日分の着替えをバッグに詰めて出発した。

「嫌になったら引き返せばいい」
そんな気持ちでエンジンをかける。
ただ、走り出しても「胸を張って旅をしている」という感覚は湧いてこなかった。
むしろ隠れるように、目立たないように。
人が集まる観光地は避け、バイクを停めるときはナンバーが見えないように後ろ向きに停める。
休憩は人気のない海辺や、コンビニの駐車場の隅でとるなど、できるだけ人と接触しないように心がけた。
風を切って走る爽快感や、目に飛び込んでくる鮮やかな景色。
本来なら旅を盛り上げるはずのそれらでさえ、心の奥にある「誰にも迷惑をかけたくない」という緊張感を拭うことはできなかった。
その気配は、旅の始まりからずっと影のように僕について回っていた。
鹿児島「ホテル太平温泉」での出会い
出発から十日ほどが経ち、旅の疲れも少しずつ体に溜まってきた。
バイク旅は想像以上に体力を奪われる。長時間の走行で体が固まり、肩や腰にじわじわと疲労が溜まっていく。
だから宿を探すときは、できるだけ大浴場や温泉があるホテルを選んでいた。
その日は宮崎から鹿児島へ入り、翌日の天気は雨の予報。
二泊する予定で「ホテル太平温泉」を予約した。
鹿屋市街地に佇むその宿は、昭和36年に民宿として始まり、以来“鹿屋で唯一温泉を持つ宿”として地域に根付いてきた。
派手さはないが、どこか懐かしい雰囲気が漂い、温泉やサウナに浸かれば旅の疲れを癒すには十分。

僕は外出を控え、温泉に浸かっては部屋でのんびり過ごすつもりだった。
それも「できるだけ人と関わらないように」という旅の習慣の延長だった。
翌日は予定通りこの先の旅の計画を立てながらのんびり過ごしていた。
昼頃、ふとフロントを通りかかったとき、女性スタッフと目が合う。
軽く挨拶を交わし、ほんの少し世間話をしただけ。
その何気ない会話のあとで、彼女は「良かったら、これ従業員用の賄いだけど」と言って、小さなパックを差し出してくれた。
中身はおにぎりだった。
ほんの小さな優しさ
お腹が空いていたわけではないし、近くにコンビニもあった。
それでもおにぎりを受け取った瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなった。
何気ない心遣いが、張りつめていた旅の緊張をふっとほどいてくれた気がした。
部屋に戻り、机の上に置いたおにぎりを見つめていると、涙が込み上げてきた。

知らないうちに、自分はすごく寂しかったのだ。
人と距離をとり、迷惑をかけないようにと心を張り詰めていた毎日。
だからこそ、ほんの小さな優しさが心に深く染みたのだろう。
その女性スタッフが、バイクで訪れていたことを知っていたのかはわからない。
それでも、あのときの一言と差し出された小さなパックには、言葉以上の温もりがあった。
その日、外は雨。窓の外には灰色の雲が広がり、しとしとと雨音が続いていた。
けれど僕の心は、不思議なほど満たされていた。
旅で得た本当の思い出
旅に出る前は、絶景やご当地グルメといった「わかりやすい思い出」を期待していた。
実際に多くの景色を見て、美味しいものも味わった。
それでも、一番強く心に残ったのは、鹿児島の小さなホテルで受け取ったおにぎりだった。
それは決して華やかなものではない。
しかし、その背景にある「見知らぬ旅人を気遣う気持ち」に、僕は救われた。
あの瞬間、自由に走っていたはずの旅の中で、自分がどれほど寂しく、誰かとのつながりを求めていたかを知ったのだ。
ホテル太平温泉を出たあとも、人が集まる観光地は避けて旅を続けた。
けれど、不思議と気持ちは晴れやかになっていた。
「堂々と旅をしていいんだ」と思えるようになり、景色を眺める心の余裕が前よりも増していた。
旅をしていると、つい「どこへ行ったか」が注目されがちだ。
でも本当に大切なのは、「誰と出会ったか」、「どんなやさしさに触れたか」なのかもしれない。
あのおにぎりを手渡してくれた女性スタッフとは、その後チェックアウトまで会うことができなかった。
もう一度「ありがとう」と伝えたかったけれど、叶わなかった。
だからこそ、あの小さな出会いは今も心の奥に残り続けている。
これから先、どこを旅しても
あのおにぎりの温もりは、きっと胸の中で消えることはないだろう。



